どうして僕らは元気のレースゲームにしがみつき新作を渇望するのか

 

先日、ゲームメーカーの元気がこのようなツイートをして話題となった。

元気といえば、「首都高バトル」で有名となり、同作品は一時期はグランツーリスモリッジレーサーと並ぶほどの日本製レースゲームのビッグタイトルでもあった会社だ。

しかし、首都高バトル系譜Xbox360で発売された「首都高バトルX」もしくはPS3で発売された「湾岸ミッドナイト」を最後に途絶えている。

これらの作品が悪かったから首都高バトルは消滅したのだ、と言う人もいるが、自分はこの二作品は必要以上にバッシングを受けていると思う。この件について語ると長くなる上に、嫌でも荒れる話題になるのでこの記事では触れないが。

そのような話よりも、このツイートが話題となり、そして「首都高バトル」復活と言う淡い夢を人々が何故信じ、そして願うのかと自分なりに考えてみたいと思う。

 

2000年代。今では信じられないが、この時代は日本製レースゲームにとっては一種の黄金期であり、そして終焉だった。

PS1の時代より進化したハード性能によるリアルなグラフィックや、100台を超える収録車種。やろうと思えばフリーロームも可能だった。「頭文字D」「湾岸ミッドナイト」に端を発した90年代の走り屋ブームは落ち着きを見せ、「HASHIRIYA」や「湾岸トライアル」のような独特の怪しさを持ったソフトは減ってしまったが、それでもまだレースゲームに活気があり、多くの作品が発売された。

そして、この時代は公道レースを題材とした日本製レースゲームにとっての最後の時代とも言える。

「峠3(峠R)」「バトルギア」「アウトモデリスタ」「首都高バトル」「街道バトル」「レーシングバトル」「頭文字D」「湾岸ミッドナイト」「ドリフトチャンプ」「族車キング」……他にもあるが、公道・もしくは公道を使用したサーキットと言う設定でのレースゲームが色々と発売された。

峠、首都高、市街地。現実ではご法度な行為も、ゲームの世界ならコースも車も自由に選んで走れたのだ。それらは「頭文字D」などの車漫画や「Option」のようなチューニングカー雑誌に触発されつつもまだ免許を持たない若者を虜にした。

実際自分もその一人であり、スポンサーのステッカーをベタベタと貼り、ホイール一つ自由に改造すらできないレーシングカーでサーキットをただグルグルと走るだけの真面目なレースゲームよりも、市販車を自由に改造し、そして深夜の公道を駆けるこちらに惹かれたものだ。

 

しかし、これらの作品は所謂「次世代機」の時代になると、そのほぼ全てが途絶えてしまう。

消滅した理由は多々あるので割愛するが、これらの作品に代わって現れた、もしくは勢力を増したのは大きく分けて三つの作品だ。

グランツーリスモ」「Forza Motorsport(Forza Horizon)」「Need For Speed」もはやこの三つの作品に対して説明は要らないだろう。勿論、これ以外の作品も発売されているが、少なくとも日本の家庭用ゲーム機においては、もはやこの三つの勢力が争っている三国志のような状態だ。

これらの作品はどれも一定以上のクオリティを満たしているし、それぞれのファンの満足度は概ね高い。では何故、そのような作品が出ているのに僕らは元気のゲーム、ひいては首都高バトルを望むのか。

まず、理由の一つとして挙げられるのが、Need For Speedを除いた作品が「上品な」レースゲームであることだろう。Forza Motorsportシリーズの番外編として位置付けされる、公道を舞台としたオープンワールドゲームの「Forza Horizon」もそうだが、これらの作品は全て「公道を封鎖したサーキット」「サーキット」「閉鎖されたフェスティバル会場(Horizon)」と、あくまでも合法的であり、アンダーグラウンドな公道レースではないとのポジションなのだ。それは車のカスタマイズにも現れ、例えば「グランツーリスモ」は比較的改造の自由度が高い「プレミアムカー」ですら、数種類のエアロ、合法的なスポイラー、純正とさほどサイズが変わらないホイール、ゲーム側で用意された色を使用したカラーリング程度だ。「Forza」シリーズはもう少し自由度があるが、それでもまだ大人しい。車をシャア専用ザクのようにしたり、ナンバーを付けたままパイクスピーク仕様のエアロにしたり……なんてことは夢のまた夢だ。

そして、サーキットである以上、アザーカーやパッシングからのバトルは望めない。(Horizonは例外だが)皆仲良くスターティンググリッドに並び、シグナルが青に変わったらアクセル全開。息が詰まるような狭いサーキットを規定周回周り、一番を目指す。勿論、これらがつまらないと言うわけではない。0.01秒を狙うタイムアタックは己との戦いであり、緊張感とスリルに包まれる。オンラインレースであればサーキットでも白熱したバトルになるだろう。しかし、公道ではないのだ。

 

では、公道が舞台の「Need For Speed」なら欲求を満たせるのか? これも答えはNOだ。確かに公道が舞台で、違法なストリートレースを行える。車のドレスアップもワイドボディ化や狂った扁平率や幅のホイールだって作品次第ではできる。しかし、こちらが元気作品の代用にはなれない。「洋ゲー」だからだ。

洋ゲーを批判するわけではない。しかし、洋ゲーにおけるストリートレースは日本とは考え方が違う。邪魔な一般車は破壊する勢いで押しのけ、追ってくるパトカーは破壊する。検問突破も朝飯前だ。これはこれで魅力はある。速く走ることよりも、警察の追跡をかいくぐり、いかに上手く逃げ切れるかを考える。一種の知力戦だ。

だが、これもまた首都高バトル的な路線とは違う。争う相手はライバルだけでいいのだ。

 

そして、これは三作品全てに共通することだが、収録車種に所謂「走り屋定番車種」が少なく、スーパーカーの比率が高い。よく世間では「グランツーリスモは日本車が多い」と言われるが、実際はそうでもない。PS2時代の遺産を引き継いでいるスタンダードカーなら「多い」に入るかもしれないが、AE86のレビン/トレノで言えば前期型の2ドアだけ、180SXに至っては後期型のType X(SR20DET搭載車)だけだ。そして、これらはスタンダードカーなのでエアロパーツを装着するなんてことはできない。元気作品のように後期改前期ルックなんてこともできやしない。Forza Motorsportは北米仕様や欧州仕様であることに目をつぶればXbox360で発売されたForza Motorsport 4まではそれなりに、むしろ現行モデルに関してはグランツーリスモよりも多く収録されていた。だが、どうしても日本専売車等には弱く、またハードが次世代機のXbox Oneになると、一度収録車種の整理を行った子により日本車は減り、残った車種もエアロパーツが大幅に削減された。そして、DLC等で増えたのはスーパーカーやフォーミュラカーだ。Need For Speedはどうか? これに関してはそもそも「日本車が減った」「日本車が無い」というのはお門違いだ。元々このシリーズはスーパーカーがメインであり、日本車は添え物程度。スポーツコンパクトシーンを題材にしたUndergroundシリーズが異常だっただけなのだ。

スーパーカーは悪くは無い。美しいデザインに300km/hも容易く出すスペック、全てが素晴らしい。だが、良くも悪くも純正の状態で完成されていて、手を加えにくい。おまけに、ライセンスの都合などで社外品のエアロパーツなどがあっても収録されない。さらに言うなら、日本の公道で走り屋が運転する車のイメージとはあまりにもかけ離れている。日本のストリートレースの世界では、未だにR34やスープラが現役なのだから。

 

ここまでは現在のレースゲームで主流となっている三本の作品についての「元気ゲーとは違う」箇所を使用して否定してきた。では次に、元気ゲーにおける他とは違った魅力を挙げていきたい。

 

まずはストーリー性。レースゲームにストーリーを求めるのか、と思う人もいるだろう。だが、公道のレースであればストーリー性は欲しいところだ。元気の作品、それも首都高バトルシリーズではドリームキャスト版からXに至るまで7年間、5作にも亘る壮大なストーリーが存在した。

例えば、シリーズ皆勤賞となる「死神ドライバー」と言う通り名のワンダラー(一匹狼の走り屋)について紹介すると、ドリームキャスト版では「環状線の四天王」としてプレイヤーの前に立ちはだかるボスの一人として登場する。しかし、この作品でプレイヤーに敗北したことにより、続編の首都高バトル2ではワンダラーに降格。ハードをPS2に変えた首都高バトルZEROでは事故を起こしたことで幽霊だと思われている描写があり、首都高バトル01では相変わらず死人だと思われ走り屋たちから不気味がられている存在とされ、首都高バトルXではまたもや事故を起こし、歴代シリーズで愛用していたS15からRX-8に車を変更。ついには完全に死人だと思われている扱いになってしまった。

これは一例だが、他の走り屋やチーム、首都高の勢力図に関しても7年間で変動し続けていたのが、首都高バトルシリーズの魅力のひとつだ。

 

次に、先ほどのストーリー性とも重なるが、首都高バトルにおけるライバルは「ただ倒せばいい雑魚」ではない。彼らはこの世界でそれぞれの人生を歩み、作品に登場した回数だけ彼らの物語がある。ある者は結婚し、ある者はチームリーダーの座を弟に譲り、ある者は復讐のために走り、そしてある者は命を落とす。それはゲーム中でRPGのイベントのように大きく扱われるものではない。多くて110文字程度の僅かなプロフィール欄の中で小さく書かれるだけだ。しかし、そうした小さな物語の積み重ねがプレイヤーに彼らをただのライバルではない、一人のキャラクターとして扱わせ、愛着や一種の懐かしさすら感じさせるのだ。

 

これもストーリー性の一つであり、また演出やゲーム性にも関係するが、元気のレースゲームはレースゲームとは思えないほど「厨二病」的であり、それも魅力であった。

 

2年前…

《最速》と呼ばれた1台のマシンが敗れ去った。

その名は【迅帝】

彼と共に首都高を支配していた十三鬼将も消え、

再び首都高を混沌が包み込む。

阪神、名古屋…

首都高の弱体化に呼応して、各地で新たな勢力が生まれつつあった。

 

首都高。

そこに足を踏み入れた瞬間、

理性は一瞬にして吹き飛び、

走りの本能が目を覚ます。

一度味わったら二度と忘れることので出来ない危険な媚薬。

奇跡の走り屋【ユウウツな天使】もまた、この場所に引きつけられ、戻ってきた。

ゆっくりと、確実に…

《伝説》への扉が開きはじめる。

 

これは首都高バトル01における、ゲーム開始~首都高選択でのムービーで流れる文章だ。普通に考えれば、レースゲームにこんなものは必要ではない。しかし、この演出が魅力の一つでもあった。ただの走り屋でありながら、まるで世界を救う英雄のような、非現実的な世界に引き込まれるのだ。そして、この演出はゲーム中のボスなどにも引き継がれ、登場シーンでは過剰な演出が行われ、一部のボスは走行中にオーラを放ち、また車から電撃や血のようなエフェクトを発するものすらいる。非現実的で、リアリティとはかけ離れた演出だが、これが公道を走ると言う行為を一種の幻想のようなものに見せる。

レースゲームでありながらRPGライトノベル的であり、それは他の作品が持っていない、もしくはかつて持っていたが、シリーズとしては途絶えてしまったものだった。

 

次に、元気の作品はスタッフの遊び心に溢れていた。分かりやすく言えば「パロディ」だ。例えば、首都高バトルの常連チームであった「DIAMOND IMAGE」はチームの存在そのものが「頭文字D」のパロディであり、チームリーダーの「イナズマシフトの拓也」はKAIDOやレーシングバトルなどの一部の作品では「稲妻工務店」や「藤田うどん店」などの文字が描かれたAE86トレノに乗って現れる。また、「紅の悪魔」と呼ばれるボスはシャア専用機をモチーフとした車で現れ、作品ごとにモチーフが違った。

これらは序の口であり、他のレースゲームから車漫画等、様々な作品のパロディ等が存在した。

こうした遊び心もかつては存在したが、今は忘れ去られてしまったものだ。

 

収録車種もそうだ。日本車が殆どだが、グレードの差異は他のゲームで見られる「見た目は殆ど変わらず、中身も差が全く無い」と言った手抜きではない。S13シルビアを例にすれば、CA18DE、CA18DET、SR20、SR20DET搭載車で差があった。他のゲームではないがしろにされがちな下位グレードも存在し、車種によってはその中でさらに前期と後期の違いもあったのだ。こうしたマニアックさがユーザーをくすぐり、自分だけの一台を見つける楽しみもあったのだ。

 

人は失ったものを大きく、そして素晴らしく感じてしまう。

しかし、そうした記憶の美化を除いても、僕らは今のレースゲームから失われてしまった元気のエッセンスを求め、そして渇望し、語り続けるのだ。

グラフィックの向上等のハードの進化により、開発費は高騰。元気のような中小メーカーが新作を出すことは絶望的で、叶わぬ夢を見ているのかもしれない。しかしそれでも僕らは同じ夢を見て、その夢が叶う日を待ち続けているのだ。

元気だけではない。「峠MAX」や「レーシングラグーン」「ゼロヨンチャンプ」「コードR」レースゲームの世界から失われた作品はあまりにも多い。そして、現在存在する作品は素晴らしいが、そのどれにもなることは決して出来ない。

 

もし、元気の首都高バトル新作計画が実行に移され、僕らが好きだった作品が帰ってくる日が来るのだとすれば。願わずにはいられない。